夏葵の言葉にさすがにむっとして私が黙り込むと、夏葵の方も少し嫌な気分になったのか、膝に顔をうずめて少しだけ黙った。重たい空気が流れてからしばらくして「夏葵」と秋乃が声をかけると、夏葵はすうすうと寝息を立てていた。
「呆れた! 座ったまま眠るなんて」
 私は大げさに肩をすくめて見せた。正直、気まずい雰囲気が解消されてほっとしていた。秋乃は夏葵の肩に近くにおいてあった毛布を掛けてやる。それから、ヒーターの温度を上げた。
「ねえ秋乃」
 私はそんな秋乃の一連の仕草を見てから、声をかけた。
「秋乃はどうなの、最近」
 彼女は酒に強い。自分の席に戻ってまた缶を片手にする秋乃の目はまだ素面のように確かな意思を持っている。一方の私はすこし視界がゆらゆらするような心持だ。
「最近?」
 秋乃が首をかしげると、長い黒髪はさらりと肩から零れ落ちる。それはきれいな仕草だった。美人と言うのは顔や言葉遣いが美人なのではなく、仕草が美しい人のことを言うのだと私は思う。
「彼氏さんと」
「うまくやってる」
 秋乃は瞬時に答えた。それから口にお酒を含む。頬の朱も良い加減で美しいけれど、唇の赤がなお美しいと思った。
「でも、別れるかもしれない」
 その唇で秋乃はとんでもないことを言う。顔は真顔のままだ。私はびっくりして「どうして」と聞いた。
「だって好きだから」
 秋乃は淡々と答えた。秋乃の書く文章みたいだと私は思う。彼女が大学で書くレポートはてきぱきしていて無駄のない理論詰めのレポートで、私は秋乃が話すたびにその文体を思い出す。ぱきりぱきりと音が聞こえるかと思うような話し方を、秋乃はする。文体が先か、話し言葉が先かと言ったら答えは明白なのだけれど。
「どういう意味? 好きなのに別れるの?」
「お互いに好きだから、別れるの」
 秋乃は言う。彼氏さんは社会人で、近頃仕事が忙しいのだという。それで秋乃にかまっている暇がなく、音信不通になることがしばしばある。秋乃はそれをさして気にしない。しかし彼氏さんのほうがそれを気にするという。「恋人なのにちっとも連絡をとれなくてすまないと思う」と時々涙ながらに謝るという。
「それで、申し訳なくなるのも辛い。辛いけれど辛いと思う暇もないほど多忙だ。そうこうしているうちに私を傷つけているような気がしてまた辛い。ようするに、多忙で無神経になるのが申し訳ないから、一度別れてほしい。のだって」
 秋乃は言った。機械的に説明するその言葉によどみはない。テレビからは折よく拍手も聞こえる。番組も終盤、大物歌手の出番が始まるらしい。私はなんと言ったらいいのかわからなくて、テレビの画面を盗み見た。
「あ、秋乃はなんて」
「別れたいなら、そうしましょうって」
 秋乃は答える。彼女は淡泊だ。私はとろけたような頭の隅で、いつも感じているようなことをまた今日も思う。
「それでいいの?」
 秋乃は笑う。美しい微笑だ。でもそれは、心底私に呆れたような笑みだった。
「冬美はどうしたらいいと思う?」
 そんなのわかんないけど。と、私はその笑みにどぎまぎしながらぼそぼそと答えた。秋乃は口角を上げたまま、私に空のコップを見せる。私はそばにあった桃のジュースをついでやった。秋乃はそれをこくりこくりと飲むと、軽やかに言った。
「冬美は――馬鹿にするわけじゃないけど――『難しい』と『それでいいの』が口癖」
 秋乃の微笑が苦笑になる。めったに感情を表さない秋乃が、今は笑みを見せている。それは酒のせいかもしれないし、あるいは少し私に対して腹を立てているのかもしれなかった。怒りを隠すためにむしろ笑っているようにさえ思えた。
「恋愛に正しい選択肢なんてないと思う。春川ちゃんが好きな人の甘えを受け入れたことも、夏葵が片想いから一歩進んでみたのも、私が彼と別れるのも、全部選択だけど、あっているかまちがっているかなんて、あとにならないとわからない」
 訥々と、秋乃は言う。ふむふむ、と私は気のないふりをしながら、それでも秋乃を怒らせないようにと注意を払いながら頷いた。
「『それでいいの』って問われても、いいかどうかなんてわからない。それに冬美は、じゃあどうすればいいのって聞いても、『難しい』としか言わない。ね、そう、難しいの、だからどっちを選択したっていいと思うな、私は」
 秋乃はすらすらと言った。その顔から笑みは消えていた。私は膝を抱えて、怒られた子どもみたいな気持ちになって、目を瞬かせた。秋乃の顔を見ることはできない。
「春川ちゃんは、彼のこと好きなのかな?」
 私は顔をそむけたまま、呟いた。
「わからない」
 秋乃は答えた。
「夏葵は、どうなのかな」
「ほんとうのところは、わからない」
 私はもう一つ尋ねる。
「秋乃は、彼氏さんのこと」
「好きだよ、大好き。辛い思いをさせたくないくらい好き」
 秋乃は相変わらず、さらりと答えた。私はその言葉に顔を上げる。恋心は難しくて、私には理解不能だ。
「どうしても別れなきゃだめなの?」
 わからなくて難しいから、私はもどかしくて秋乃に尋ねた。秋乃は相好を崩した。それは脈絡のない笑いだった。
「だって彼が今手いっぱいなら、重荷になりたくないから」
 別れたいなら別れてあげる、そばにいてほしかったらいてあげる、それが私の好きの形なの。
 秋乃は言った。話し方はいつもの通りだったけど、それは悲しい声音だった。秋乃は辛いのかもしれないと私はこの時ようやく思い当たった。
「好きなんだね」
「当たり前でしょ」
 私が言うと、秋乃は先ほどの悲しい声音が嘘だったかのように、いつもの調子で切り返した。「好きだから付き合ってた」と言う。それが過去形になっているのはわざとなのだろうか。
「ねえ秋乃、好きってどんな気持ち?」
 私は尋ねた。それは私には到底理解できない、けれど重要な難題だった。しかし答えはない。秋乃のほうを見ると、彼女は不意にぱたりと倒れた。春川ちゃんの電池切れよりも唐突に、まるで故意にスイッチを切ったかのように、ぱたりと。そして猫のように丸まって眠り始めてしまった。
「もう、三人とも!」
 私の声に、テレビがまた拍手をした。そうしてかちりと時計が大きな音を立てて、一年が終わりを告げた。


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