Mに一方的に怒りをぶつけたその日から、わたしはほとんどMとは話さなくなった。考えてみればMとの会話には苛立つことの方が多かったし、特別彼女じゃないと話せないようなこともないんだから、会話がなくなったって何にも困らなかった。ただ、問題は体育の時間で、ペアを組む相手はたまに誰かが休むのを除けばもうすっかり固定してしまっていたから、Mと組まされるばかりだった。誰かが休んだらペアの取り残された方の相手になることもあったけれど、それ以外は毎度毎度Mで、本気でうんざりしたわたしは時々仮病を使って体育をサボった。一旦スイッチが入ってしまったら、もうだめだった。Mの挙動一つ一つに不快感を覚えたし、他の友達とMの話をするのすら嫌になった。 かわいさ余って憎さ百倍? は? 全然かわいいと思ってなかったわ。 定期テストの結果も散々だったし、親には「最近元気ないんじゃないか」とか言われるし、クラスメイトの女子たちはMに飽き、わたしにも飽きたのか、だんだん離れていくような気がするし、Aくんはあれ以来特に話しかけてくることもない。 (なんかもういいや) どうにでもなーれ、だ。別に、わたし、一人でも平気だし。 『括弧つきの正義』なんていささか仰々しいタイトルのついた作文がまたわたしの目に触れることになったのは、退屈な夏休みが明けて少し経ったころだった。あろうことか、担任の先生が気まぐれに出すA4の学級通信の右半分を、その作文が占領していた。 (うわ、恥ずかしい) 事前に載せてもいいか訊いてくれたら絶対断ったのに! 担任が帰りのホームルームで話す内容はほとんど耳に入らなかった。コンクールで入選した、ということで載せられたようで、クラスメイトの気怠い感じの拍手を浴びたが、そんなことよりクラスメイト達にどう思われるかが不安でならなくて、顔がカッと熱くなるような気がした。 (わたしやってることと言ってること違うって思われるじゃん) 偽善者、という言葉が脳裏に浮かんで消えた。ていうか、その逆? どっちにしろカッコ悪い。 それから、いや、わたしのことなんて誰も気にしてないに違いない、誰も読んだりしない、と思った。 でもMは気にするかも、とも思った。 Mから手紙をもらったのはその翌日のことだった。 『入選おめでとう! ×××なら入選とかできるって思ってました』 『あのね、私、どうして怒られちゃったんだろうって考えたんです。きっと私がダメだからだよね、じゃあどこをどうなおしたらまた×××の友達にもどれるかなあって考えた』 『きっと、ずっと前から、×××のことも、ほかのみんなのことも、いらいらさせちゃってたんだと思います。×××は、私のダメなところ、最後までがまんしててくれたんだって、思いました』 『いままでごめんなさい』 『迷惑かも知れないけど、×××に憧れてるのはほんとだから、元気出してほしいです』 今どき下駄箱にラブレターとか呪いの手紙とかあるのかよ、と思いながら開いてみたそれは、小学生が好みそうなキャラクターものの便箋に書かれた、Mからの長い長い反省文だった。とてもその場で読める量ではなかったから、持って帰って自分の部屋につくとすぐ読んだ。何も考えないで読んだ。 読み終わって、ああそうですか自分のダメっぷりにやっと気づきましたかそりゃよかったですね、とか、なんで落ち込んでないのにあんたに元気出してとか言われなきゃないんだよ、とか、言ってやりたいことがいっぱいあったから、ほとんど衝動的に家の電話の子機を持ってきてMの携帯に電話をかけた。文句言ってやるつもりで電話したはずだった。 『……はい。……えっと、×××?』 「あのさあ」 それだけ言って、一瞬何を言おうとしたのかわからなくなって、言葉に詰まる。 「いい加減に……」 喉がおかしくて声が出なくて、ほんの少しの沈黙が流れた。 『……×××、泣いて――』 「うるさい」 その喉の異変が、自分が涙を堪えていたからだということに気づいたのは、Mにそう言われてからだった。電話の向こうのMの声は困惑気味だったけれど、困惑しているのはこっちのほうだ。どうして涙が出る! わたしは怒っているはずなのに。 『あっ、ごめんなさい』 「……謝らなくていい!」 『ごめ――、あ。はい』 わたしはどうして怒っているんだろう。何に対して怒っていたんだろう。 Mが非常識だから? たぶんそうだろう。 Mがいじめられていても平気な顔をしているから? それもあるかも知れない。 わたしはMが嫌いだから? ……嫌い? だっけ? 「……あんた自分がいじめられてることわかってた?」 『いじめられてる……っていうか、みんなに呆れられてる、ってなら、思ってたよ』 Mの声のトーンは暗くなかった。 「じゃあわたしもあんたに呆れてるだけだと思ってたの?」 『×××は、たぶん私のこと好きじゃないけど、優しいから、友達でいてくれたのかなって、思った』 (優しいってなんだよ) わたしは絶対に優しくなんかないのだ。M本人に嫌みを言うこともあった、陰口も沢山言った、クラスメイトと話すのに利用した。困っていても助けなかった。避けた。 そんな心の中を見透かしたかのように、Mは言う。 『私のこと怒ってくれるの、×××だけだから。×××は、優しいんだよ』 「そんなふうに言うなら――」 本当に優しいのはあんたのほうだろ、とは、言えなかった。 涙が頬を伝って顎から滴りそうになったから、腕で拭う。 忘れていた。彼女は、何一つ「悪い子ではない」のだ。ただ人よりちょっと幼稚で、ちょっとズレてるだけなのだ。きっとわたしは、「悪い子ではない」Mが、クラスメイトに悪く思われるような、嫌がられるような言動をするのが、見ていられなかっただけなのだ。 「なんでもない。わたしが悪かった」 『……×××が謝った!?』 「うるさいな。茶化してんじゃねーよ。わたしあんたのそういうところ嫌い」 『えっ』 正直に言ったら、なんだかおかしくなってきて、笑えた。 「あのさあ、わたし、これからは容赦なく思ったこと言うから。あんたの変なとこ全部直させてやる。直んなかったら絶交」 『え、なにそれ、え? 絶交?』 「じゃあね」 わたしは勝手に通話を切った。ちょっと乱暴だったかもしれないけれど、明日学校で謝ればいい話だ。 どうせクラスメイトの女子たちとは仲良くなれそうな雰囲気じゃないし、今更他人の目なんかどうでもいい。今のわたしにとっての正義は、ズレてるMの「ズレ」をなんとかしてやることなんだろうと思った。どういうわけだか、馬鹿みたいに清々しい気分だった。 『いついじめ側に回るともわからない、そんなわたしが語る正義なんて、カッコつきの正義としか言えないのかも知れない。しかし、たとえわたしの考える「正義」が、カッコつきの正義だったとしても、わたしはそれを正義と信じて行動するしかない。 わたしは自分を信じようと思う。 本当に正しいことは、きっと誰でも知っているはずだから』 <了> |