生存の価値
ぬのや

「もし君が、私以外の女の子と箱舟に乗ることになったら、どうする?」
 恋人の部屋。二人で背中を合わせて本を読む。聞こえるのは紙の擦れる音と、お互いの呼吸音。感じるのは時折揺れるお互いの身体。それだけが存在していた静寂は、山城さんの声によって変質した。
 居住まいを正し、彼女の背中から離れて振り向く。それにあわせるようにして、彼女は読んでいた本から視線を上げ、僕を見る。さらりと揺れたショートヘアからは、夏の熱気に引きずり出された汗の匂いがした。
「……、そんな話なのか、その小説」
 ノアの箱舟をモチーフにした話なのだろうか。ありきたりな話を好まない彼女にしては、感情移入までして読むのは珍しい。ああ、しかしそういう話なのであれば、一般的には想い人がいない者同士で乗り込んだりするのだろうか。
「いや、ただのありきたりな、箱舟の中で出会った男女が段々惹かれて行く、みたいなつまらない話」
 肩を落として山城さんは言う。なるほど、つまり読んでいた小説がつまらなかったから、のめりこむことも無く色々とほかの事を考えることになったということか。彼女らしいといえば、まあ、彼女らしい。
 それで、どうするの、とでも言うかのように、彼女はじっと僕の目を見つめて答えを待つ。特筆するべき特徴も無く、特別美人というわけではない顔。それでも幾度と無く僕を求め、幾度と無く僕に求められた唇を見ると未だにすこし照れくさくなってしまう。意識をそらす為にも、質問の答えは何が最適かを考えることにした。
 これは問題ではなく、質問である。唯一絶対の回答があるわけではない。そして、そもそもたとえ話であるから、正直に答える必要も無い。必要なのは彼女が求める返答は何かを考えることだ。自分で言うのも恥ずかしいものではあるが、僕は彼女に好かれている自信がある。転じて言えば、彼女は僕の答えに期待していると見ていい。
 しかし厄介なことに、彼女は少々特徴的な思考回路の持ち主だ。それはこの質問自体からもよく分かる。そこも彼女の魅力の一つではあるが、これではどれだけ頭をひねって最適な返事をしたとしても期待に応えられるか否かは五分といっていい。ということは、あまり考えなくてもいいということなのだろうか?
「そうだな、多分、何もしないで死んでいくと思うよ」
 種の繁栄のためとはいえ、今のところ山城さん以外とそういったことをしようなどという気は起きない。そもそも彼女のいない世界を想像できない。彼女に依存しているつもりは無いし、依存されている気もしない。特に印象深い思い出も無い。しかしながら、彼女がいない生活などありえないと思ってしまっている。無くてはならない存在ではないが、あるのが当然である存在となっている。
 だから僕は虚無感に襲われて、責任を全て放棄することで人類を滅亡させて死んでいくだろう……というのが、僕の答え。思いついたことを適当に言ってみた割には、彼女の思考回路に合ってそうな返事ができたのではないかと自画自賛してみる。
「うん。やっぱり君は普通だ」
 ……、けらけらと笑ってくれたので、良し。
「それは、褒められてるってことでいいのか」
「さて、ね」
 ひょいと軽やかに立ち上がった彼女は、バランスを崩して尻餅をつく。少しだけ、埃が舞った。
 少しおかしな彼女が好きな僕としては、普通であることはマイナスであると思う。しかしながら、そんな僕を満足気に普通と評価したのは僕のことを好いている彼女であるから、と考えたところで、堂々巡りになっていることに気づいて思考を止めた。
 部屋がまた、静かになる。世界に永遠が訪れたような錯覚があった。時が止まることで、僕と山城さんの幸福を永遠のものに出来たのではないかと確かに感じた。けれどそれは、僕の都合のいい解釈でしかないのだろう。どくりどくりと心臓の拍動は聞こえるし、時の流れも血と同様に続いている。今度はページをめくる音も聞こえないので、こちらからも話題を振ってみようとしたところ、
「結局」
 ぽつり、とつぶやいた彼女の声は、静かな部屋によく通った気がした。
「実際君が何をして、どうなるかは、そうなる時が来ないと分からないんだけれどね」

 彼女には特別な力があるとか、そんな事は決して無い。
 何の根拠も無く、僕が保障しよう。
 ゆえに『そうなる時』が来ることを彼女が知っていたとか、彼女が『そうなる時』を作り出したとか、そんな事は、無い。
 だから。
 世界が山城さんごと滅んだことと、彼女がそんな話をしたこととの間に関係性は全く無い。


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