スキトオル
みよし

 すすり泣きが、聞こえる。

 見て、ひこうき雲。
 映画のワンシーンみたいに、彼女がきれいな声で呟いた。鈴の鳴るような、凛とした声。それで、わたしと彼は彼女の指のその先を見つめた。
「ほんとだ」
 呆けた彼の声が耳をくすぐる。わたしは仰ぐ、ひこうき雲じゃあなくて、それを見上げる彼の、西日に透き通るような横顔を。
 彼女は一等嬉しそうにふふふと微笑んだかと思うと、彼の手を引いて、ベランダへの扉を開けた。からからから。夕焼け色の教室に響いた音までも、彼女の演出のようだと思った。
 ひこうき雲が消えるまでにね、好きな人の名前を百回唱えると、両想いになれるんだよ。
 彼女は笑った。無邪気に、無垢に。彼の手に指を絡めながら。
「へえ、じゃあさ、――、――、――」
 彼は彼女の指に応えながら、彼女の名前を呼んだ。何度も何度も、熱心に。それはわたしにとって頗る残酷な仕打ちであるのに、世界で一番好きな声だからなのか、愛らしい彼女の名前を口にする彼の声でさえ、わたしは聞き漏らすまいと耳をそばだてた。すると彼女はくすくすと幸せそうに笑って、彼の声を遮る。
 とおる、とおる、すきだよ、とおる。
 けれど、彼女の声は平面で、わたしの耳には届かない。
「おれも。すきだよ、すきだよ、――、――、――」
 彼女を呼ぶ彼の声は、わたしの体の隅々に渡るのに。
(すきだよ、すきだよ、とおるさん)
 わたしはふわふわとベランダに降りていって、彼の隣に並んだ。
(すきだよ、すきだよ、とおるさん)
 そうして、暖かい西日の中で幸せな彼の左手に、わたしの指を絡めようとした。
(すきだよ、すき、すき、透き通るくらい、すき)
 きゅっと握るのに、指は彼の手を掴めない。
 透き通るのは、彼の横顔でも、西日でも、届かない気持ちでもなくて。
 ――身のないこの体。

 闇に沈んだ教室の隅で、すすり泣きが聞こえる。

<了>




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